へんな旅ばかりしています。

へんな旅をしているようなので、自分のための防備録的にやってみます。

「キュン!」で来た沖縄で渋い博物館巡り。

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今回の沖縄旅行、ちょっと渋い博物館あたりを巡ってみました。

 

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その1:沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリート

極東最大と言われる米空軍の嘉手納基地のすぐそば、コザゲート通りに位置しています。旧コザ市は基地の門前町として栄えた側面があると同時に、そのデメリットも被ってきたところ。戦後の米軍政化から日本復帰までの間に生まれた文化や歴史を紹介するという、沖縄でも珍しい施設です。那覇空港でレンタカーを借りて最初に向かったのがここでした。

 

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施設は通りに面したビルの1階に入居しています。残念ながら館内は撮影NGでしたが、基地があることによる経済的なメリットは享受しながらも苦労させられてきた経緯など、なかなか興味深い展示が多数並んでいました。このエリアには米軍が軍人の利用を認めた「Aサイン」を掲げた飲食店などが多く建ち並んでいたそうですが、そんな「Aサインバー」の雰囲気を再現した一角も。また、この近くで起きた「コザ騒動」についても詳しく紹介されています。米軍人が基地外で起こした犯罪はほとんどまともに裁かれることはなく、それが米軍政への反発が大きかった理由の一つで、コザ騒動もその広義として起きたものでした。

 

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その2:対馬丸記念館

翌日、ホテルをチェックアウトして向かったのがコチラ。

 

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入館すると「対馬丸」同型船の模型がお出迎え。「対馬丸事件」は「戦争中に子供達をたくさん乗せた船が沈んだんですってね可哀想に」くらいの認識だったんですが、ここに来て「そんなもんじゃねぇぞ」ということを知ることに…。

1944年、米軍がサイパンを陥落させて日本全土を爆撃できる体制が整うと、日本軍は沖縄本土での決戦に備えて婦女子など非戦闘員10万人を日本本土や台湾へ疎開させるよう要求します。要は戦争に邪魔なんで余所へやんなさい、みたいな感じです。ただ、当時すでに沖縄では日本が制海権をほぼ失い、本土や台湾へ向かうのは船が攻撃される可能性があって危ないという認識があったようで、これに素直に従う者はほとんどいなかった方です。そこで学校単位などで疎開させたのですが、保護者は「軍艦で運んでくれるなら」と渋々承認。でも、いざ港に着いてみたらコイツがいやがった!と。既に建造から30年近く経過した老朽船で、このときに疎開団を運んだ3隻のうちで最も古くて鈍足。家族が不安げに見送る中、2隻の護衛艦を伴って九州へ出港しました。

 

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もとが貨物船ですから、当然ながら快適な船旅なんてワケもなく、8月の暑さの中で貨物室に設置された簡素な「棚」に押し込めらることに。その時の船室のレプリカがコレです。

対馬丸は米軍の潜水艦から攻撃を受けて沈没しますが、深い船倉の底から縄ばしごで甲板に上がらないと脱出できないような状況だったことも、被害を拡大させた一因のようです。

 

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この事件で犠牲になった方も地獄ですが、生き残った人たちもある意味「地獄」でした。二次被害の恐れがあるため、同じ船団の船は救助活動もできずにその場を離れざるを得ず、1週間近くも漂流して救助されたという人もいたんだとか。で、対馬丸が撃沈されたことは軍事機密として口外することを禁じられたため「あの船から生き残った」ということを人に話すこともできませんでした。沖縄で疎開に行ったはずの家族を待つ人たちも「地獄」でして、「対馬丸の沈没で亡くなった」ということは知らされなかったため、いったい自分の家族がどうなっているのか、疎開先からの便りが無いけど…という不安をずっと抱くことに。

 

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無事に疎開先に着いた人たちも決して幸せとは言えなかったようです。子供達は最初は修学旅行のように「本土に行けば汽車が見れる、雪が見れる」というノリだったそうですが、沖縄の子供達には九州の冬は寒すぎて、その寒さに苦しめられることになります。食事も満足に取れたわけではないのでひもじい思いをさせられましたし、なんといっても長いこと家族に会えない寂しさは相当堪えたようです。なんだか、「戦争」というもののヤなところが凝縮されたような案件だったんですねこれ…。

 

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この記念館の近くに対馬丸事件の慰霊碑「小桜之塔」がありました。

 

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興味深かったのは、この慰霊碑の建立には愛知県が関係していた、ということ。愛知県丹陽村というのは今の一宮市です。愛知県内の児童から1円募金を募って20万円以上集めたということは、当時の愛知県のキッズ達20万人以上が関わった、ということなわけですが、なんか偉いな皆さん。

 

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その3:沖縄県公文書館

空港に戻る前に立ち寄りました。

 

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先ほどの「対馬丸資料館」で、ここの展示室でこんな企画展を行っているのを知ったのがきっかけです。

 

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この企画展「民主主義のショーウィンドー~アメリカ統治の光と影~」は沖縄県アメリカの公文書公開などを通じて収集した米軍政時代の資料などを通じてアメリカ自体が「民主主義のショーウィンドー」と呼んだ琉球統治の姿を紹介するもの。特にここでは琉球政府の上に位置づけられた琉球列島米国民政府(USCAR)広報局の撮影した写真などが中心的に取り上げられていました。アメリカが「ほらボクたち沖縄を上手く統治してますよ-」というプロパガンダ的な資料を通じて見えてくるものがある、という考えです。

 

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軍が冷戦下での沖縄の地理的重要性などから長期での統治を求めていた一方、実は国務省は沖縄の統治は一時的なものと考えていた、というのは少し意外でした。

 

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沖縄の日本本土復帰を求める声はアメリカによる統治が始まった当初からあったようです。できるだけ沖縄を日本と切り離して「琉球人」というアイデンティティを持たせアメリカに親近感を持たせるように様々な施策を行っており、実際に導入はされなかったようですが「琉球政府の旗」まで試作されたりもしたんだとか。アメリカ文化を紹介する施設を造ってみたり交換留学生をアメリカに送ってみたり、アメリカに協力的な市町村に多額の補助金を出してみたり…。でも結局、日本復帰への思いは消えることはなく1972年に返還されることになったわけです。

 

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そこにはやっぱり「基地の島としてやりたい放題されてる」という反発は大きかったんでしょう。基地による被害などについても紹介されていました。琉球政府立法院もことある毎に非難決議を出していたそうです。

 

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そんな立法院のあった議事堂の柱の一部が、公文書館の玄関先に保存されていました。図らずも沖縄の光と影みたいなものを尋ねる旅になってしまいましたが、こういうのをきちんと知るのも大事だよね、ということで。