へんな旅ばかりしています。

へんな旅をしているようなので、自分のための防備録的にやってみます。

ヴォーリズを尋ねて近江八幡。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

主には近江八幡を中心に活動した建築家、として知られています。有名どころだとアニメ「けいおん!」のモデルになったと言われる豊郷小学校、建て替えになったけど外観保存された大丸心斎橋店、鴨川のほとりで謎の存在感を誇示する東華菜館あたりが、この人の作品です。

で、当然ながらそのお膝元の近江八幡には多くの建築が残っており、一度行ってみたいとは思っていました。そしたら、こんな企画があるのを発見。

www.biwako-visitors.jp

普段は非公開となっている建物も公開されるうえに解説付き。ちょうどGW初日で都合がついたので、これに参加してきました。

 

近江八幡って名古屋からだと微妙に行きにくい感があります。新幹線で米原まで行って琵琶湖線乗り換えってのが一般的なんでしょうが、名古屋~米原の特急料金は2000円近くかかってしまいます。そこでずっと在来線で行くことにしたのですが…。米原の手前で「車両点検のため」と列車が停まってしまいました。結局、ロクに事情の説明もないまま30分ほど足止めをくらうことに。どうもこのとき、豊橋米原間の東海道線の全列車がまるごと止まってたみたいです。何があった一体。

 

結局、近江八幡駅に到着したのはツアー開始の朝9時半。タクシーでツアーの集合場所となる「ウォーターハウス記念館」へ急ぎました。申込先に遅れる旨を電話で連絡したら「ウォーターハウス記念館で20分ほど滞在するので、それまでに来れれば間に合いますよ」とのことで、なんとか合流できました。

 

普段は非公開の館内も、少しですが見学できました。

 

このあたりは「池田町洋風住宅街」として、ヴォーリズの設計となる3軒の洋風住宅が残されています。この吉田悦蔵邸もその一つ。この隣に一見普通の和風家屋に見える住宅「旧近江家政塾」もありますが、これもヴォーリスの手によるものなんだとか。

 

このエリアの北側にあるのが「ダブルハウス」、2世帯分を一棟とした住宅建築です。ヴォーリズの両親が住んでいたこともあるそうなんですが、実はそれがバームクーヘンで知られる「クラブハリエ」の源なんですよ、という話が。近江八幡の菓子店「たねや」の創業家がこの近くに住んでおり、ヴォーリスの両親家によく出入りしていたんだそう。そこで、アメリカ風の菓子に馴染んでいたことが戦後に「たねや」が洋菓子製造を始めたことに繋がっているんだそうです。ホントかよ、と思ったら「クラブハリエ」のウェブサイトにもそう書いてありました。恐るべしヴォーリズ。ただし「ヴォーリズがバームクーヘンの作り方を教えた」ってのは嘘らしいぞ。

clubharie.jp

 

ツアーは近江八幡の街中を徒歩で移動します。昔からの風情ある建物も多いのですが、どれも手入れが行き届いています。日本で「昔の街並みが残っている」という地域、下手すると「地域が貧しくなったために建て替えもままならない結果として残ってしまった」というケースが実は少なくなかったりして、行政が観光資源として売り出そうとするときに「町の恥をさらすのか」というような地元からの反発を招くこともあります。近江八幡については「大事に使った結果として今でも残っている」という雰囲気がかなり感じられました。大きなお屋敷も結構あって、近江商人の栄華ってところでしょうか。

 

この通りの突き当たりに見えるのが「滋賀県立八幡商業高等学校」。

 

これもヴォーリズの建築なんですが、これこそがヴォーリズ近江八幡に来て活躍することになった「きっかけ」を作った場所。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ1880年アメリカはカンザス州で生まれたアメリカ人。幼い頃から建築家を志しコロラドカレッジに進学しますが、同時にYMCAの活動にも熱心だったようです。その活動の中で「アジアとかほかの人が行ってないようなトコで布教活動したい!」と強く思うようになり、建築家の夢を捨ててYMCA活動へ没頭。そんな中、日本の近江八幡にできる商業学校での英語教師のポジションの話があり、「日本で宣教できる」とこの話に乗った、というわけです。当時の日本は、日本のモノを海外に売って外貨を得るために「海外と取引ができる商人」を早急に育成する必要がありました。そこで近江商人のメッカであるこの地に商業学校を作ることになったようですが、ヴォーリズ近江八幡の出会いは「偶然」の産物だったのかもしれません。

ヴォーリズの英語教師としての評判は上々だったようですが、彼の本当の目的は「キリスト教の布教」。当時の御雇外国人は校長よりも高給だったそうですが、その財力?で布教活動も積極的に行ったようです。それが問題視されたこともあり、当初の任期であった2年で更新されることなく、ヴォーリズは英語教師としての職を失います。日本の他地域のキリスト教の布教団体や教会などからもお誘いはあったようですが、結局ヴォーリズはこの地に残ることを決めます。ただ教師はクビになったので仕事をしなきゃいけません。そうして始めた事業の一つが「建築家」だった、というわけです。もともと建築家志望として勉強していたわけですから素養はあるんだよね…。また地元の人からも愛される人だったようで、この学校もその現れ。この校舎は1940年にヴォーリズの設計で建て替えられたものなんですが、30年前に自分をクビにした学校の校舎の設計を任された、ということなんですよねコレ。ヴォーリズが教師だった頃の教え子がちょうど実力者になるような頃、その恩師に設計を任せたいと思わせるようなものがあった、というわけで。

 

続いてやってきたのは「近江兄弟社」の本社。これも実はヴォーリズが興した会社です。メンソレータム創始者と知り合ったことでメンソレータムの日本での製造販売権を得たため、この会社を作ることになりました。ただ、いま近江兄弟社が売っているのは「メンターム」。実は近江兄弟社、1970年代に経営不振に陥り会社更生法適用となっています。そのとき「メンソレータム」の権利を米国本社へ返上したんです。その直後、「メンソレータム」自体をロート製薬が買収したため、「メンソレータム」は現在では「ロート製薬」の商品として流通しています。会社再建後、こちらでは「メンターム」として売るようになった、という由。なおこの本社屋と通りを挟んだ対面にはヴォーリズ像があり、近江兄弟社の社員が毎日お花を供えているんだそうです。

 

こちらは旧八幡郵便局。1960年まで現役の郵便局として使われていました。

 

あとで内部も見てきましたが、一部がカフェとして使われていたりします。

 

続いてアンドリュース記念館へ。こちらはヴォーリズキリスト教布教の拠点としていたところになります。

 

ここでは1時間ほど、ヴォーリズ記念館の館長さんによる座学が1時間ほどありましたが、これが面白いのなんのって。

www.youtube.com

冒頭で紹介されたのが米津玄師「Lemon」のPV。この撮影が行われた場所の一つが早稲田の「スコットホール」、ヴォーリズ建築です。こうして今でもヴォーリズ建築が注目され愛されるのは何故か?その理由として「ユーザー目線」を挙げています。建築家が建物に係われるのは竣工まで。一度完成してしまえば、それは施主のものになり、建築家のもとにあった時よりも長い時間を「施主のもの」として過ごすことになります。そこでどう使われたか、が建物の歴史を作る。そのことを理解してヴォーリズが設計を行っていたからではないか、というのです。確かにヴォーリズ建築にはこれといって共通する「様式」が殆どなく、建物毎に個性があります。それは施主の求めるモノを作っただけだから、と。

toyosato-kanko.jp

その一例として挙げられたのが豊郷小学校でした。ちょうど20年前に建て替え問題で町全体を巻き込む大騒動になったところです。強引に建て替えを進める当時の町長と町民が対立、結局は建物は保存されることになりました。確かに「貴重なヴォーリズ建築を守れ」というスローガンが掲げられましたが、地元の方にとって実は「ヴォーリズ建築」というのはさして重要ではありませんでした。地元出身の財界人の巨額な寄付によって当時「東洋一」とも謳われた校舎は自慢の場所で、節目節目の記念撮影をこの後者の前で行ったりと「地域の歴史」そのもの。そんなものを軽々しく撤去するな、という思いの方が強かったようなんです。そこに「ヴォーリズ建築」というトッピングで地域外の人たちも巻き込めた、と。ヴォーリズ建築が素晴らしかったわけではなく、そんな地域に愛される建築を設計できたヴォーリズが凄いのだよ、というお話でした。なるほどね。

 

なお、ちょっとしたお茶菓子も出てきました。ヴォーリズの顔がついたクッキーじゃん。

 

アンドリュース記念館、内部も見どころ満載。撮影禁止でしたが、ヴォーリスの不況にまつわる品なども展示されていました。

 

外観はバリバリの洋館ですが、2階にはバリバリの和室。YMCAに参加する日本人に馴染みやすいように、と設置したようです。

 

お次はヴォーリズ記念館。ヴォーリズが晩年暮らした住宅です。

 

玄関は脇に。

 

「一柳米来留」の表札がかかっています。日米関係が悪化する中、1941年にヴォーリズ日本国籍を取得し帰化します。その時に選んだ日本名がこれです。名字は奥様のから、名前はミドルネームから「米より来たりて留まる」という意味を込めて漢字をあてたそうです。

 

リビングルームにはヴォーリズ直筆の額が飾られています、「神の国」というのはキリスト教的な意味での「神」。署名の下に「○書いてちょん」みたいなのがありますが、これは「近江八幡は世界の中心」という意味が込められています。これは「近江八幡」という場所が世界の中心だということではなく「いま自分がいるところが世界の中心=いま自分が近江八幡にいるんだからココが世界の中心」という意味合い。つまり「あなたがどこにいようと、そこがあなたにとって世界の中心なんですよ」ってメッセージなんだとか。

 

ツアーの最後は「ヴォーリズ学園」。

 

今でも幼稚園から高校までを擁する大きなミッション系の学校です。

 

この「ハイド記念館」が最後の訪問地でした。

 

メンソレータム社の創始者であるハイド夫妻からの寄付によって幼稚園舎として建てられたことから「ハイド記念館」の名が付けられました。

 

ヴォーリズ近江八幡に来たときに使ったトランクの一つが展示されていました。送り先が「八幡」と書かれていたため、間違って北九州の「八幡」に届いてしまったものもあったそうで…。まぁ八幡で官営製鉄所が操業を始めたような時期、外国人が行くんならそっちでしょ!と思われたのも仕方ないような気がする。

 

ハイド記念館に隣接する教育会館。体育館の内部も風情があります。

 

ヘレン・ケラーが来日した際にここで講演したことがあるそうです。

 

2階にはヴォーリズ夫人でこの学園の創立者でもある一柳満喜子の部屋も。この奥様も、なかなか波瀾万丈な人生を送られた方です。もと小野藩主の家に三女として生まれますが、女学校を出て単身アメリカに留学。アメリカには7年もいたそうです。帰国後、ヴォーリズと知り合い結婚することになるのですが、その後押しをした一人が広岡浅子。そう、あの朝の連ドラ「あさが来た」のモデルとなった、大同生命の創業者です。兄が広岡家に婿入りしたことから縁があったようです。またもと藩主で貴族院議員のお家ですから外国人との国際結婚は一大事、反対意見も相当あっったようですが、結婚を決めたときの一柳満喜子は既に30代半ば。それまで浮いた話がなかった娘がこのまま結婚しないよりは外国人でも結婚した方がよいのでは…と認められたんだとか。アメリカ留学中には教育実践活動にも熱心だったこともあって、教育に関する事業を手がけることになったようです。

 

幼稚舎時代の什器などもありましたが、籐の椅子は幼児サイズ。粗相をしたときも洗って干せばいい、というのもポイントだそう。

 

こちらで最後のレクチャーを聞いて、ツアーは終了となりました。

 

館内には様々な展示があるのですが、ヴォーリズ建築が海外にもある、というのはちょっと知りませんでした。ソウルの梨花女子大学って名門女子大じゃないですか! どうもこれはまだ残っているようなので、是非見に行ってみたいところ。

 

校庭には一柳満喜子の銅像もありました。

 

せっかく近江まで来たので近江牛でもランチで食べましょうか。

 

まぁビールとかもいっちゃうんですが。その町での体験がいい感じだと、財布の紐も緩んじゃうっての、ありません?

 

ちょっと豪華に近江牛の盛り合わせ。ローストビーフに焼肉、肉寿司を堪能しました。