へんな旅ばかりしています。

へんな旅をしているようなので、自分のための防備録的にやってみます。

「中内功記念館」へ行ってきた。

神戸の丘陵地帯に「流通科学大学」という大学があります。この大学は1988年に開学されましたが、創設者は中内功。一時は日本最大の流通グループにまで成長した「ダイエー」創業者です。

この学内には「中内功資料館」と「ダイエー資料館」があるのですが、大学施設なので基本的には平日のみの公開となっています。それがこの夏、オープンキャンパスに合わせて土日の公開日が設定されました。これは行くしかないでしょ。

 

最寄駅は神戸市営地下鉄西神・山手線学園都市駅

 

駅からの途中、「キャンパススクエア」というモールがありました。キーテナントはイオンのようですが、これもオープン当初はダイエーだったっんだろうな…。なお、周囲には他にも大学などが多数あり、マンションも建ち並んでいるので結構賑わっています。

 

駅から徒歩5分ちょっとで流通科学大学に到着です。

 

まずは中内功記念館へ向かいます。大学内の施設見学には予約が必要で、まずはこちらで受付となります。担当の方が簡単な説明をしてくれ、オーディオガイドを貸してくれました。展示物に番号がついており、それを打ち込むと解説が聞けます。

 

エントランスのホールには中内功ダイエーの年表が。

 

隣の部屋から本格的な展示が始まります。あまり広くはないのですが、ギッシリ詰め込まれている感じで見ごたえがあります。

 

中内功は1922年の生まれ。第2次大戦で徴兵され、満州へ派兵されたあとフィリピンへ送り込まれます。ここで大怪我を負いながら日本へ帰還しますが、その戦争体験がその後の人生に大きな影響を与えたようです。死の淵で浮かんだのが「家族で食べたすきやき」。物質的な豊かさが心の豊かさや平和に繋がる、という信念はここから得たものだとか。

 

日本に帰還してからは実家の「サカエ薬局」を手伝うなどしながら、1957年にダイエー1号店となる「主婦の店ダイエー」を大阪に開業します。翌年にはチェーンとして2号店も出店。この頃から既に「価格破壊」として割引販売を行う存在で、プライベートブランドすら始めていたというから驚きです。

 

1962年にアメリカの流通業の視察に行った際、全米スーパーマーケット協会の総会に出席。そこでゲストスピーチをしたのがなんと当時のケネディ大統領。ケネディはスーパーマーケット業界を「アメリカの生活水準の向上と経済成長に貢献する存在」「アメリカとソ連の違いはスーパーマーケットがあるかどうかだ」と称えてみせました。この時代、日本ではまだ流通業は「まともな産業」とは思われておらず、スーパーも「すーっと出てきてパッといなくなる」とかいわれていたような存在。このスピーチは中内功を更に流通業に注力させるきっかけとなったようです。

 

ダイエーといえば「ダイエー・松下戦争」。なんじゃそりゃ、と思う人も今や多いと思いますが、ダイエーでは1990年代半ばまで松下/パナソニックの製品は殆ど扱われていなかったんです。ダイエーは松下のテレビを2割引で販売しましたが、これが松下の逆鱗に触れ出荷停止を喰らってしまいます。ダイエーも様々なルートから仕入れようとしますが松下が様々な手を使って悉くルートを潰していく、というような有様。当時の家電といえば「町の電気屋さん」で買うのが当たり前で、各メーカーは特約店で販売して貰っていました。当時の松下では特約店での割引上限は15%程度としていたらしく、それより安く売るダイエーの存在は特約店の手前、無視できませんでした。加えてこの直前に松下は経営危機を迎えており、松下幸之助自らが特約店を熱海に集めて「定価販売による共存共栄」を訴えたばかり。松下幸之助は「無理に安売りしなくても定価で売ればメーカーも小売店もハッピーじゃん」的な感じで中内功に迫りますが「店が売りたい値段を決めて何が悪い、メーカーが勝手に値段を決めるんじゃなくて消費者が買える値段のモノ作れよ」と一歩も引かず。「価格決定権を消費者に」と考えていた中内功には譲れないものだったんでしょう。既に1960年代末の雑誌のインタビューで「松下幸之助は凄いけど過去の人だよね、メーカーが勝手にいいと思って商品作って勝手に値段を付けるような時代じゃないよ今は」と言ってるんですが、今の状況をみると誰が正しかったのか?って気はしますね。なお、花王石鹸とも同じようにバトってますが、こちらは10年ほどで和解しています。

 

その「戦争」のさなか、ダイエープライベートブランドで出したテレビかこれです。メーカーと組んで当時の半値程度で販売されました。ここまでして「よい品をどんどん安く」を極めたかったのか、と。

 

流通業界の地位向上を図ったことも中内功の大きな功績です。1967年には今でも続く「日本チェーンストア協会」を立ち上げ、初代会長に就任しました。この写真はその際のモノですが、右から2人目が中内功。で、その隣の右端の人はイトーヨーカドー創業者の伊藤雅俊。一番左はユニー創業者の西川俊男、その隣の左から2番目がイオン創業者の岡田卓也と、なかなか凄い顔ぶれが揃ってます。それにしても当時、おそらく格下と思っていたであろうイオンに自分の育てた会社を救済してもらうことになろうとは思ってもみなかったんだろうな…。ユニーも今やドンキの子会社ですし、イトーヨーカドーセブン&アイとなってコンビニ以外はパッとしない感じになってるし、ねぇ。

 

ダイエーは拡大を続け、1972年には当時小売業では日本一の売上げを誇った三越を抜き、1980年には日本の流通業として初めて年間売上げ1兆円を達成しました。これはその際に用意された達磨です。

 

その後もダイエーの快進撃は続き、この流通科学大学の開学へと至るのでした。なおこの年に「福岡ソフトバンクホークス」も発足しています。1990年には経団連の副会長にも就任。それまで経団連では製造業中心で、流通業は格下に見られており「あんなものまともな産業じゃない」なんて会長が発言しちゃうほどだったそうですから、そこの副会長に非製造業から初めて就任したのは、一つのゴールだったかもしれません。

中内功が経営責任をとってダイエーの経営陣から外れたのは2001年、そこからわずか10年ほど後のことです。そう考えると栄枯盛衰って凄いなぁ、と。中内功は2005年に亡くなりましたが、ダイエーは社葬をしませんでした。流通科学大学での学園葬や、日本チェーンストア協会での「お別れ会」などは開かれたようですが…。

 

そのほか、中内功の人となりやエピソード、写真などが展示されています。この「ネアカ のびのび へこたれず」はよく人へと贈る言葉として書いていたもの。

 

「ホークス」といえば水島新司の漫画「あぶさん」に登場していますが、中内功も度々漫画の中に登場しています。水島新司から贈られた原画なども展示されていました。それにしてもこんなに凄い内容なのに訪れる人が少なすぎないですかね…。しかも今日はオープンキャンパス。受験生の皆さん、この大学の偉大なる創設者に興味はないのか?とか思いましたが、これから大学受験をしようという年齢なら既にダイエーはオワコンだった時期。その親の世代もバブル後に転落していく姿の方が印象的だったでしょうし「数ある大学の一つ」でしかないのかもね。

 

記念館の上には実家の「サカエ薬局」が移築され一部再現されています。「サカエ薬局」はJR神戸駅近くにありました。

 

内部も見学でき、当時の薬局の雰囲気がわかります。

 

続いて「ダイエー資料館」へ。講義棟の地下にあって、ちょっと場所は解りにくいです。通りかかった大学職員の方に聞いたら親切に案内してくれました。

 

何となく郷愁を感じさせるサインに導かれて地下へ。

 

入口はこの先です。壁面にはダイエーが開発してきたプライベートブランドの紹介が。

 

最初のセクションはダイエーの歴史が紹介されています。

 

ここに掲げられた「For the Customers」はダイエーの経営理念。「店は客のためにある」なんて今から見れば「何あたりまえのこと言ってんの」って感じですが、これを「あたりまえ」にしたのがダイエー、なんですわ。

 

こうして年表で見ると1957年の創業から10年ほどで全国展開するわPB出すわメーカーと喧嘩するわ、まぁやりたい放題だったんですな。

 

1970年代前半のオイルショックの頃には「物価値上がり阻止運動」とかやってたんですね。

 

このへんはダイエーの急拡大と衰退が一枚に収まる感じだな…。1980年代前半にダイエーは赤字で経営危機に陥りますが、外部から経営者を招き若手中心の改革を行い、見事復活します。ただその後、中内功はその功労者を追いやってしまいます。一説には息子に後を継がせにくくなるから、なんて言われていますが…。中内功のワンマン経営の傾向が強く出始めたのはこの頃のようで、事業拡大もこの時期が激しくなっています。

 

ダイエーのロゴの変遷。1975年に日本でここまで緻密なCIを導入した会社は珍しかったんじゃないかしら。一部が切り取られた円形もちゃんと意味があります。

 

次のセクションはダイエーの様々な姿を貴重な現物資料も交えて紹介。

 

ダイエーが特に力を入れてきたのがプライベートブランド商品。オレンジジュースを様々な手を使って安く輸入して通常の半額程度で売ってみたりと「価格破壊」の象徴のような存在でしたが、ダイエーが衰退していった理由の一つとしてPBへ入れ込みすぎた、という指摘もあるようです。例えば1995年にダイエーは128円のPB缶ビールを販売しましたが、結果的には失敗に終わりました。ベルギーから輸入したのですが、船便で運んだために輸送途中の劣化が激しく「おしくない」という評価がついてしまった上、需要予測を誤って過剰在庫を抱えてしまい、1本100円とかで投げ売りする結果となりました。既に消費者が求めるものは単に「安さ」ではなかったわけです。

 

ダイエーの「安さ」への追求はハンパじゃありません。これは牛肉について紹介下パネルなんですが、まだ米国統治下だった沖縄から関税優遇を活用?して輸入してみたりしてたようです。自社で農場を持つのも今では珍しくありませんが、ダイエーがその奔りでした。

 

「主婦の店ダイエー」1号店の看板。京阪の千林駅近くにありました。「主婦の店ダイエー」としては1974年に閉店しましたが、その後もダイエーグループの店舗がありましたが、それも2005年に閉店しているそうです。

 

ダイエーでは新店舗がオープンするとこの「繁栄の鍵」が必ず店長に渡されることになっていました。扱いは特に来まっっておらず、店長室に飾る店もあれば店内に展示する店も、という感じだったそうです。

 

ダイエーの歴史において「阪神淡路大震災」は大きな位置を占めます。家業のあった神戸や大阪など関西を地盤としていたダイエーにとっては、多くの店舗が再建不能なレベルのダメージを受けるなど大きな被害を与えた存在であり、これもダイエー破綻の遠因とされています。その中で、営業できる店舗は可能な限り営業をし、販売物資も大型フェリーまでチャーターするなど様々な手段で送り込み、ライフラインの維持に努めた存在もダイエーでした。店に明かりを灯し、モノを供給する。それだけでも被災者を元気づけることができる、というのは「モノがない」戦争体験をした中内功だから解ることだったのかもしれません。

 

ダイエーは様々な事業を展開していきました。コンビニの「ローソン」も元々はダイエーが始めたんですよね。今ではすっかりオーケーストアやユニクロなどデフレニッポンを象徴するようなお店で埋め尽くされた銀座マロニエゲートも、もとはダイエーがフランス・パリの百貨店「プランタン」と提携して出店したデパートだったんだし。

 

飲食事業も多数。最近ちょっと復活気味の「ドムドム」も日本初のハンバーガーチェーンとしてダイエーが設立したもの。もともとはマクドナルドの筈だったのが日本法人の出資比率で揉めて単独でやることになったそうな。でもその後何故か「ウェンディーズ」持ってきてるし…。

 

次のセクションは資料などが中心。

 

ダイエーってスポーツ関連でもいろいろやってたんですよね。陸上部には1988年のソウルオリンピックに出場したマラソン選手、中山竹通も所属していました。

 

そして福岡ダイエーホークス。1988年に南海電鉄からホークスを取得、1989年シーズンから福岡に本拠を移し「福岡ソフトバンクホークス」となりました。1993年には福岡ドームが完成氏ホームとしました。

 

そして1999年、ホークスとしては26年ぶりのリーグ優勝、加えて25年ぶりの日本一を獲得しました。中内功ダイエーを去るのは2001年のこと。ダイエーグループ最後の輝きだったのかもしれません。そして「福岡ダイエーホークス」も2005年には「福岡ソフトバンクホークス」となりました。でも考えてみたら中内功孫正義、日本を代表する名経営者が相次いでオーナーになってる球団って凄くない?

 

福岡のホークスタウンについての紹介もありましたが、福岡をアジアの一大拠点にしようという壮大なプランだったようです。

 

福岡ドームも、今考えてみたら贅沢な造りなんですなぁ。

 

そのほか店舗マニュアルやチラシ縮刷版、社内報など膨大な資料が置かれていました。阪神淡路大震災の各店舗の被災状況を纏めたレポートまで閲覧できましたが、ビルの1階で完全に潰れてしまった店舗の写真とか、ちょっと胸が潰れそうだったよ…。

 

実は大学、もう一つ「見るもの」があります。学食のある「RYUKA DINING」の2階へ。

 

恐らく日本にはここにしかない「キャッシュレジスター博物館」です。中内功のコレクションを展示していますが、「私にとってキャッシュ・レジスターの響きは、この世の最高の音楽である。」 が中内功の深淵だったそうで。

 

初期のレジスターはまるで装飾品のようですが、最初は取引金額をお客に示す程度の機能しかなかったそうです。それが計算やレシート印刷、取引記録や出入金など様々な機能を付加されていきます。

 

近代になると機能性重視になっていきます。それでも日本のスーパーで使用され始めた頃のレジはボタンが重く「腱鞘炎になるから休憩時間を多く寄こせ」みたいなハナシになるレベルだったとか。

 

創設者の銅像はいまでも大学エントランスの一角で学生を見守っていました。世の中には完璧な経営者なんていないし、中内功もダメだった面はいろいろあるんでしょう。それでも、日本において「流通業」が今のような姿になるにあたって、この人が成し遂げた功績は大きすぎるな、と実感。これはみんなもっと見るべき。