へんな旅ばかりしています。

へんな旅をしているようなので、自分のための防備録的にやってみます。

こんな歴史も大切に、「URまちとくらしのミュージアム」見学。

なかなか予約が取れません。

 

山の上ホテル」をチェックアウトし、赤羽へやってきました。

 

赤羽駅から歩いて10分もかからないくらいの丘の上にURの賃貸住宅「ヌーヴェル赤羽台」があります。今日のお目当てはこの一角にある「URまちとくらしのミュージアム」。昨年9月、UR=独立行政法人都市再生機構がオープンした、集合住宅や都市計画の歴史を紹介する施設です。

 

ここは以前は「赤羽台団地」と呼ばれ、URの前身である日本住宅公団が造成しました。老朽化が進んだことから2000年から建て替えが進められ「ヌーヴェル赤羽台」と名前も変わりました。エレファントカシマシ宮本浩次が育った場所でもあるらしいですね。

 

すっかり新しいマンションとなった中、いかにも「公団住宅!」といった佇まいの建物が。

 

その近くにはこれまた公団住宅の団地でよく見かけた「スターハウス」もあるじゃないですか。箱形団地に比べて地理的制約が少ない、居室の三方が外に面するので通気性がいい、団地の景観に変化を与えられる等々の利点から作られましたが、建設費が高いとか隣家と近くてプライバシーに問題がある等の問題もあって次第に採用されなくなり、今では殆ど残っていません。その貴重さから、先ほどの団地建築とともに国登録有形文化財に指定されました。

 

その近くにあるのが、「URまちとくらしのミュージアムミュージアム棟です。こちらの見学はガイドツアーに参加する必要がありますが、ツアーは1日3回実施で各回20名が定員。しかも水曜と日曜、祝日はお休みなので、かなり狭き門となってなかなか予約が取れないんですよ…。今回は「山の上ホテル」に泊まるタイミングで運良く確保できた次第。ツアー開始時間になるとまずツアーや見学に関する説明や注意事項が伝えられ、URの歩みに関するビデオを鑑賞します。

 

その後、1階から4階までエレベーターで上がり、復元住戸の見学がスタート。こちらでは日本の集合住宅や都市計画において重要なマイルストーンとなった4つの団地の居室が復元。保存されているんです。最初に見学するのは「同潤会アパート」。同潤会関東大震災からの復興の一環として1924年に設立された財団法人で、東京と横浜に16箇所「同潤会アパート」を建設したことで知られています。同潤会は今のURとは直接的な繋がりはなく、「日本初の鉄筋コンクリート集合住宅」としては軍艦島のほうが先ですが、それでも計画的な都市開発と大規模な鉄筋コンクリート造の団地建設という面ではエポックメイキングな存在であることから、ここで大きく取り上げれているようです。

 

ここで復元されているのは代官山の同潤会アパートのうち2種類の住宅。こちらは単身者向けとして用意された部屋です。

 

風呂もトイレもない一部屋だけの間取り。

 

玄関側に押し入れ風に用意されたベッド?がちょっとイイ感じ。団地に独身者向けの部屋?って気がしますが、同潤会アパートは街区まるごと再開発し、難燃性の住宅を供給することを目指していたため。同じ街に様々な人が暮らすコミュニティが形成されるよう、ファミリー向けだけでない住宅の供給が行われたわけです。コミュニティ形成という点では団地内に銭湯や食堂があったり、井戸端会議が出来るような場所が多数用意されていたりと住民同士の交流を促すような仕掛けも多数あったそう。

 

こちらは世帯向けの住宅。

 

和室2室に台所、お手洗いという間取りです。

 

室内はすっかり和風の設え。

 

同潤会アパートでは日本で団地を建設するにあたり様々な新しい技術的な試みも取り入れられていました。床面は畳ではなく、コルクに畳風のシートを引いたものですが、洋風の暮らしにも対応できるように考えられたもの。ただコルクは当時輸入品しかなくコストは高かったらしいですが…。なお同潤会はその後、1941年に設立された住宅営団に引き継がれました。ただ住宅営団は戦時中の設立のうえ軍需産業への住宅供給も行っていたことからGHQから解散命令を出されてしまいます。同潤会アパートを含む賃貸住宅は居住者に払い下げられることになりました。分譲マンション化したことで合意形成が困難だった面もありそうですが、2013年を最後に同潤会アパートも全て取り壊され再開発されてしまいました。

 

お次は戦後。戦後復興期に不足する住宅を大領に供給する必要に迫られ、1955年に日本住宅公団が発足しました。その日本住宅公団が開発した初期の団地のうち画期的なコンセプトを導入したものの一つがここ「蓮根団地」です。

 

蓮根団地の完成は1957年。玄関周りは今の住宅に比べてもそれほど違和感がありません。

 

蓮根団地は「ダイニングキッチン」が導入された初期の団地となります。当時の日本ではちゃぶ台で食事し、夜はそれを片付けて掃除して布団を敷いて同じ部屋で寝る、というスタイルが一般的でした。そりゃ片付けの手間が大変じゃん!食事場所と寝る場所を別の部屋にすれば主婦の仕事減るよね?という「寝食分離」という考え方を提唱。それを実践するためにこのダイニングテーブルは作り付けの標準装備として用意されていたというから驚きです。あまりの使いやすさに引っ越しの際に一緒に持って行こうとする居住者も後を絶たなかったとか。

 

居室は和室が2室。ベランダには収納庫が用意されています。

 

風呂とトイレがついていますが、風呂場の洗面台のシンクがもの凄く深くなっています。この写真だと簀の子で底上げされていますが、洗濯での利用を想定したものだそうです。まだ当時は洗濯機が一般的ではなく、ここで手洗いしていたわけですね。そのため団地内に洗濯機を置く想定のスペースが用意されていません。そういえばダイニングキッチンも冷蔵庫を置くようなスペースがないんですよね。

 

その次が1957年竣工の「晴海高層アパート」です。当時としては未曾有の高さだった10階建てで、エレベーターが設置されたのも公団住宅としては初のものでした。

 

3層6戸分をワンブロックとした「メガストラクチャー構造」が特徴で、当初は1階はピロティとして解放される構想でしたが深刻な住宅不足解消が目的だった公団住宅にそんな贅沢な空間利用が認められるわけもなく、しっかり住戸が設置されました。

 

エレベーターは各階には停まらず、1階・3階・6階・9階だけ停まるスキップフロア形式。

 

実際に使用されていたエレベータも保存されています。スキップフロアになったのは当時まだ高価な存在だったエレベーターのうち「ドア」のコストが高く、それを極力減らすため、ではないかとのこと。なおエレベーターのカゴ内の撮影はNGでしたが、使用されていた当時のまま保管されているので、ちょっとお上品とは言いがたい落書きとかが、ね…。修復すればいいんだろうけど、保存という観点からはそう簡単じゃないでしょうし。

 

ここでは2種類の住宅が復元されています。最初はエレベーターが停まるフロアにあった住戸。外廊下が非常に広く感じますが、これも住民同士の井戸端会議の場所となることを意図したものだそうで。手すりが巨大ですが、初の高層アパートということで普通の金網とかじゃ落っこちるんじゃないか、と心配だったのでこんな形になった模様。壁面には電話が設置されていますが、なんとコレ外線に繋がる電話機なんです。まだ固定電話が一家に一回線というワケではなかった当時、電話がかかってくると各住戸に通知が届き、ここまで電話に出るために出てきていたそうです。

 

さて、ここまで「なんかどっかで見たような…」と思った方、いませんか?

ソレ、多分コイツです。

slips.hatenablog.com

 

この「晴海高層アパート」の設計者は前川國男。日本の近代建築の巨匠であるだけでなく、世界三大建築家といわれるル・コルビュジエの日本の一番弟子と言われる建築家です。もしかしたら日本でも師匠の作ったユニテ・ダビダシオンみたいな集合住宅を作ってみたかったのかもしれません。

 

slips.hatenablog.com

 

考えてみればフランスのユニテ・ダビダシオンも3フロアを1つのユニットとする構造でした。あちらは2フロアのメゾネットスタイルでしたが、さすがに1950年代の日本の公団住宅で採用できるような間取りではないですね…。エレベーターをスキップフロアにしたのも、もしかしたら師匠の真似をしたかっただけだったりして。

 

ただお部屋は和室。ただベランダのある窓側にちょっと腰掛けられるような棚があるあたり、ちょっとユニテ・ダビダシオンっぽい雰囲気です。

 

台所はステンレスと、当時としては高級品。なんせ家賃が今の物価だと月25~30万くらいだったそうですからね。銀座や丸の内などにお勤めのエリートサラリーマンの家庭や芸能人などが多く入居していたとか。

 

トイレが様式なのも当時としては珍しかったはず。

 

続いて、エレベータが停まらない階にあった住居。階段でワンフロア上下してアクセスします。

 

ダイニングキッチンに和室が2室という間取り。ただこのフロアには外廊下がないため、双方向に大きな開口部が取られているのが特徴です。

 

こちらはベランダ側。ここにもベンチ?棚?らしきものが。

 

キッチンの方向。脇のスペースは冷蔵庫の設置を想定したものかも、との説明でした。それなりの高所得者が入居することから、そうした贅沢品も持っていたのかも、ですね。なお配管が剥き出しなのは当初から。隠すよりは出した方が広く見えるから、だそうな。

 

ダイニングテーブルの上にはル・コルビュジエを意識したのかモデュロールの絵が飾られていました。

 

復元住戸として最後に見学するのが「多摩平団地テラスハウス」です。郊外では住宅開発も団地ではなく長屋スタイルが用いられており、1958年に入居が始まったこちらは初期の典型例となっています。

 

2階建ての住居が横に6戸繋がって並ぶ構成でした。

 

2階は見学できませんでしたが、1階は自由に見てまわれます。こちらには居間が一部屋。

 

台所はこんな感じですが、勝手口があるのが集合住宅の団地と違うところかも。

 

最後に都市計画としての団地の変遷や、住戸に使われる様々な備品等の移り変わりの展示コーナーに案内されます。住宅不足の解消のために住宅をとにかく供給することが目的だった日本住宅公団も、住宅不足が解消されると「住環境の向上」に目的がシフト。1981年に住宅・都市整備公団へと改組されます。そして過去に開発した団地等の再生が大きなテーマとなってきたことから、現在の都市再生機構へ変わりました。なんせ英文名が「Urban Renaissance Agency」ってルネッサンスかーい。確かにここでは、住宅開発の目的が変わってきたことで団地のレイアウトが変化したり設備等が変わっていった変遷も見ることができ、なかなか興味深いです。

 

見学時間は2時間弱。でも屋外にも展示物があったりするんですよ。この円筒形の謎の物体、先ほどみた「晴海高層アパート」に設置されていたもの。エレベーターがスキップフロア形式でしたが、当初は2階には3階までエレベーターで上がって階段でワンフロア降りてアクセスする構成でした。でもソレって無駄じゃね?と竣工前に気がついて、2階へ直接あがれる外階段が設置されることになったんだそうです。その外階段がコレです。中は螺旋階段となっており、2住戸で1箇所の階段を共用していました。

 

昔ながらの団地の向かいに今風のマンション。外の敷地に保存されている団地は内部見学はできませんが、大学との共同研究に使われたりしているようです。今後は公開される可能性もあるような感じだったので、ちょっと楽しみ。

 

名古屋への戻りは空路の利用。

 

JALセントレアまで飛びました。

 

夏スケジュール期間にB777などが投入されていた頃はいつも遅れている印象でしたが、冬スケジュールではB737が使われ,かなり時間通りに飛んでくれています。